西光寺の歴史について
古い寺伝によれば当寺は元天台宗で諦善(文永9年(1272)5月死亡)が開山住職として創立した。
その頃より伝教大師作といわれる聖徳太子立像を安置している。元美濃国の幡長という所にあったが中島郡の三宅村(現平和町)に移ると、当時の領主橋本伊賀守の菩提所となった。
明応3年(1494)法順が浄土真宗に改宗し現在地に移動した。当寺所蔵の画像阿弥陀如来には明応3寅年蓮如上人の裏書がある。
当寺過去帳によれば当山開基は本誓院釈西元法師で命日は明応3年(1494)3月3日。この人が法順かと思われる。
また尾張藩二代藩主光友公(瑞龍院)のころ名古屋旧立杉町の芦沢佐左衛門家から当寺へ嫁してきたのが円照院釈姓雲秋夕(寛延四年(1751)没)。
その義理の子が当寺第5世の義天で光友公より葵御紋つきお茶入れとお菓子入れを拝領した。
その後、尾張藩四代藩主吉通公に九条輔実公の息女がお輿入れされた際、九条家家老の石井備後守の娘がお供して来た。
この者は尾張藩五代藩主五郎太様を養育し、尾張藩六代藩主継友公にお仕えした後義天に嫁してきた崇心院妙渓信女(宝暦4年(1754)没)である。
その御縁で九条家から数多の寄付をいただいた。さらにこれらの縁故で尾州公から特別に永世社寺奉行直達の由緒および提燈、幕に葵の御紋を許可された。
しかしその後、「公共事業(成正学校=後の佐屋小学校)の資として売り払われたり、明治九年の伊勢暴徒の火災によって焼失したりし、残ったものは僅かになった。」と記録されている。
また慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いの際、尾張徳川家は朝敵の名を蒙ったが勅命により朝廷側についたのだが、
同3月、勤皇の立場を明確にした東本願寺第二一代嚴如上人が当寺本堂においでになり直命されたとの記録もある。
西光寺の移動の歴史について
西光寺は、下記の住所を3度移動したと伝えられています。
ただし、移動時期については資料がないため、残念ながらまったくわかっていません。
しかし、以前に西光寺があった「愛知県稲沢市平和町中三宅」付近には現在西光寺のお檀家さまはほとんどありませんし、
明治6年(1873年)9月には第11世成正が「育材学校」を西光寺に創立し、本堂を教室にして授業をしたため、
現在の地には200年以上前に移ってきたと思われます。
①美濃国海西郡幡長村(現在の岐阜県海津市平田町幡長)
②尾張国中島郡三宅村(現在の愛知県稲沢市平和町中三宅)
③現在の愛知県愛西市稲葉町本郷200番地